ハチス 思い出話(8)

昭和14年、私が第二白虎少年団に入団したとき、班長は七日町の印刷屋の中村さん、五年生になったときは、北小路町の小林巌一さんでした。

制服は、現在の制服とほぼ同じですが、長袖の袖まくりに半ズボンでした。

ネッカチーフは正方形で、各学校とも、全部同じえんじ色で、スカウトハットは高価なものなので使用せず、学帽にカーキ色のカバーで覆って制帽としました。

制服の左肩には、班毎に違った色の布テープを縫い付けて班別章として、首から下げた呼笛の紐は、ネッカチーフにからげて、右の胸ポケットに差し込みました。

半ズボンのベルトには、左右になすかんを付け、それにジャックナイフと、千段巻きに束ねたロープを下げて、半ズボンの左右の後ろポケットに入れていました。

そして、団杖と言う金剛杖のような、背丈位の長さの棒を持たされました。
これを組み合わせて三脚を作ったり、藪の中を歩く時に、草木を払いながら歩くのに使用しました。

当時の少年団徽章は、現在のスカウト章とよく似ていますが、真ん中の鏡は八咫鏡、現在の花びらに相当する中央の部分は草薙剣、両側の花びらの部分は八尺瓊勾玉と、三種の神器を組み合わせて配置していました。
微笑みの「そなえよつねに」のリボンは、「そなへよつねに」と右書きになっいました。

現在の連盟歌は、当時は「少年団歌」と呼び、全く同じものでしたが、最後の「スカウトわれら」の部分は「少年団員」と歌っていました。

昭和16年、私たちは6年生になり、班長や次長になる学年になったとき、小学校は国民学校と改められ、少年団日本連盟をはじめ、すべての少年団体は解散となり、大日本青少年団に統一合併されました。

三指の敬礼は、ユダヤ教の敬礼とされて禁止され、生徒全員が、胸に、赤い二羽の鷲をデザインした、マークを縫い付けました。

こうして、年の暮れの12月8日、日本の連合艦隊が、ハワイの真珠湾のアメリカ艦隊を攻撃して、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まったのです。

こうして、私たちは、翌年の昭和17年3月、国民学校最初の卒業生となりました。

この思い出話は、これからも続けたいと思います。

ではまた

平成29年8月11日
ハチス団委員 赤城良一