ハチス 思い出話(49)

交通整理の奉仕

ハチス隊は、創立以来、いろいろな奉仕をしてきました。
交通整理はその代表的奉仕で、会津まつりの藩公行列の奉仕も、
ハチスは最初から奉仕していました。

始まりのころは、行列が通過するまで移動せず、沿道の人が飛び出さないよう、
先回りをしてロープを張って整理していました。現在は行列に沿って、
歩きながら整理を行っているようです。

ハチスの交通整理の始まりは、ボーイ隊が、十日市に出店したときでした。
ボーイ隊の4ヶ班が、それぞれ本屋、金物屋などに分かれて販売しているとき、
シニア・スカウトたちは、大町四つ角を中心に交通整理を行っていました。
その後、出店は止めましたが、十日市の交通整理はしばらく続けていました。

皆さんは、鶴ヶ城の本丸が、一時、競輪場になったことを知っていますか。
昭和25年(1950)、鶴ヶ城本丸跡内に、1周333.3mの競輪場を建設、
東北地方で初の県営競輪を開催しました。

競輪の収益金は、戦後の学制改革による、新制中学校の校舎建築の資金などで、
これによって、若松一中、二中、三中などが、次々と新築されました。

競輪が開催されると、ファンが続々と詰めかけ、乗ってきた自転車が、
雑然と置かれるようになりました。この自転車の整理の奉仕もしました。

昭和27年には第7回国民体育大会が、福島・宮城・山形の東北3県で開催され、
会津若松市では、柔道・軟式庭球の競技が実施されました。この時には、
神明通りの交差点に、まだ信号機が設置されていなかったので、
警察官の指導を受けながら、ゴー、ストップの整理も行いました。

また、第16回国民体育大会の水泳競技では、開会式の国旗掲揚を行いました。

平成30年1月19日
ハチス団委員 赤城良一