交通整理の奉仕
ハチス隊は、創立以来、いろいろな奉仕をしてきました。
交通整理はその代表的奉仕で、会津まつりの藩公行列の奉仕も、
ハチスは最初から奉仕していました。
始まりのころは、行列が通過するまで移動せず、沿道の人が飛び出さないよう、
先回りをしてロープを張って整理していました。現在は行列に沿って、
歩きながら整理を行っているようです。
ハチスの交通整理の始まりは、ボーイ隊が、十日市に出店したときでした。
ボーイ隊の4ヶ班が、それぞれ本屋、金物屋などに分かれて販売しているとき、
シニア・スカウトたちは、大町四つ角を中心に交通整理を行っていました。
その後、出店は止めましたが、十日市の交通整理はしばらく続けていました。
皆さんは、鶴ヶ城の本丸が、一時、競輪場になったことを知っていますか。
昭和25年(1950)、鶴ヶ城本丸跡内に、1周333.3mの競輪場を建設、
東北地方で初の県営競輪を開催しました。
競輪の収益金は、戦後の学制改革による、新制中学校の校舎建築の資金などで、
これによって、若松一中、二中、三中などが、次々と新築されました。
競輪が開催されると、ファンが続々と詰めかけ、乗ってきた自転車が、
雑然と置かれるようになりました。この自転車の整理の奉仕もしました。
昭和27年には第7回国民体育大会が、福島・宮城・山形の東北3県で開催され、
会津若松市では、柔道・軟式庭球の競技が実施されました。この時には、
神明通りの交差点に、まだ信号機が設置されていなかったので、
警察官の指導を受けながら、ゴー、ストップの整理も行いました。
また、第16回国民体育大会の水泳競技では、開会式の国旗掲揚を行いました。
平成30年1月19日
ハチス団委員 赤城良一

国体の交通整理・神明通り(昭和27) .jpg)
十日市の交通整理2(昭和27)

第16回国体・開会式の国旗掲揚 
鶴ヶ城競輪場