自作のユニフォーム
西蓮寺に子ども会が誕生したのは、昭和22年のことでした。
そして、本格的にボーイスカウト活動を始めたのが昭和23年、
昭和24年に、日本連盟に登録したのです。
正式のボーイスカウト隊となりましたが、敗戦後の窮乏生活の中では、
連盟制定のユニフォームを揃えることなど、夢のようなことでした。
最初は、思い思いの服装で訓練していましたが、そのうちに、
父親が着ていたワイシャツを、一斗缶に入れてカーキ色に染めて、
ユニフォームらしいシャツを着るようになりました。
ユニフォームは揃わなくても、ネッカチーフだけは同じ物をと、
西蓮寺にあった紫色の幕を、正方形に裁断して、全員に配布しました。
進駐軍のGI(兵士)の軍服が、ユニフォームと同じデザインなので、
東京のアメ横から買って、着たりしていました。
帽子は、スカウト・ハットと野営帽がありましたが、ハットはともかく、
それまで足に巻いていたゲートルを縫い合わせて、野営帽に作り替えました。
「世の中が逆になったんだから、足に巻いた物を頭に被っても良かんべ」、
と言って笑っていました。
スカウト活動が活発になると、服装や装備等にも欲が出てきて、
特に指導者たちは、スカウト・ハットが欲しくなってきました。
戦時中、若松の青年団員の制帽が、スカウト・ハットと同じものでしたので、
元青年団員の人を訪ねて、ハットを譲ってくれるようお願いして歩きました。
青年団のハットはつば広で、魚釣りの帽子に便利だったので、ハットを被って、
釣り竿を担いでいる人を見掛けると、自転車でその人を追いかけていき、
その帽子を譲ってもらってくると言うこともありました。
スカウト・ハットは、頭頂部が4方に凹んでいますが、青年団のハットは、
3方が凹んでいたので、譲ってもらったハットを、水に浸けるなどして、
形を整えていました。
こうして、昭和24年9月24日、第1回全日本ボーイスカウト大会が、
皇居前広場で行われた時には、遠藤外与人先生が考案した、
現在の縞のネッカチーフを新調して参加、胸を張って、銀座通りを行進しました。
平成30年1月9日
ハチス団委員 赤城良一