ハチス 思い出話(46)

高瀬喜左衛門先生のこと

白木屋漆器店の元社長で、会津若松市長を勤められた高瀬喜左衛門先生は、
ハチスの創成期に、遠藤外与人先生とともに、隊委員長を務めて下さいました。

先生は大正12年生れでお名前は治男、若松市立第二小学校に入学されて、
第二白虎少年団に入団、スカウティングに励まれたのです。
昭和9年に会津中学校(現会津高校)に入学、4年生(現高校1年生)のとき、
少年団日本連盟の代表として、イタリア派遣団として渡航しました。

昭和15年に会津中学校を卒業したあと、水戸高等学校を経て、
京都帝国大学理学部物理学科に進学されました。京都帝大の物理といえば、
昭和24年に、日本人初のノーベル物理学賞を受章した、
湯川秀樹博士が教鞭を執っていた、日本の物理学の最高峰の学部でした。

昭和20年、先生はこの京都帝国大学理学部物理学科を卒業、
8月15日に日本は敗戦、高瀬先生は会津にお帰りになり、
白木屋漆器店の経営に携われました。昭和21年からは、
母校の会津中学校の物理の教師として、教壇に立たれたのです。

実は、この昭和20年、私は会津中学校4年生で、勤労動員で川崎市の工場で、
焼夷弾の空爆を受け、会津に帰っていて自宅で玉音放送を聴きました。
終戦後、学校での授業は再開され、部活動も始まり、
学而会(生徒会)も復活させました。

私は、2年生のとき、先輩たちが造った同好会の科学研究会に入会して、
ラジオの組み立ての勉強をしていました。戦争が終わったとき、
先輩はすべて卒業して、私たちが最高学年の4年生になり、
学而会に物象部を創り、ラジオの研究を再開しました。

5年生になったとき高瀬先生が赴任され、私たちの物理を担当されました。
高瀬先生の講義は、さすがに京都帝大の物理学科出身だけあって、
説明は大変判り易く、楽しい時間となっていました。

また、私たちの物象部の顧問も担当され、放課後も狭い部室で、
電波や真空管の理論の講義をして頂きました。私が卒業した後、
長岡工専の電気科に進学したのも、先生のご指導のお蔭と思っています。

西蓮寺と高瀬家は親戚関係にあったので、ハチスが誕生するとき、
秋月鏡観先生は、白虎少年団の団員だった高瀬先生に声をかけ、
遠藤外与人先生とともに隊委員長に就任して頂きました。

ハチスの活動が活発になると、先生も積極的にキャンプにも参加され、
リーダーたちとも寝食をともにされ、豊富がご体験で指導して頂きました。
先生は大変ざっくばらんな方で、私たちの雑談の中で、
「私は機械いじりが好きで、目覚まし時計などを分解すると、組み立てるとき、
必ずネジが一本残るんだ」などの失敗話をするのです。

その後、先生は教職の道から、白木屋漆器店の経営に携われる傍ら、
会津短期大学講師を務められ、昭和43年には会津若松市長に就任されました。
さらに、竹田綜合病院理事長、県立会津短期大学長を歴任されましたが、
平成16年12月4日、心不全のため逝去されました。

平成30年1月5日
ハチス団委員 赤城良一