ハチス 思い出話(43)

富士登山

昭和33年7月26日、山梨県の山中野営場で年長隊富士野営が行われました。
全国から集まったシニア・スカウトは828名、福島連盟からも、
ハチスをはじめ大勢のスカウトが参加、指導者として沖井道雄君と私が参加しました。

山中野営場は、日本人として、ベーデンパウエルのギルウェル実修所に、
初めて入所した佐野常羽伯爵が、大正14年(1925)、富士山麓の山中湖畔に、
第1回指導者実修所を開設した所なのです。

それ以来、山中野営場は、ボーイスカウト指導者の訓練のメッカとされ、
指導者として一度は山中にと、リーダーの憧れの所となりました。

訓練は、7月26日から8月1日までの6泊7日の長期間にわたり、
日頃は体験できない、樹木の伐採や、櫓組みなどの縛材法を体験しました。
さらに、山中湖での樽いかだ製作、山中湖一周ハイキングなど、
バラエティーに富んだプログラムを体験しました。

8月1日の閉会式のあと、会津から参加した指導者・スカウト全員で、
予定通り富士登山をすることになりました。リュックなどの装備は、
野営場の臨雲寮という宿舎に預け、最小限の装備で出発しました。

野営場の浦田太一郎場長から、防寒着をしっかりして水を充分用意すること、
特に手袋を忘れないようとのアドバイスを受けました。

富士吉田口から登り始め、五合目に差しかかるころは、スッカリ暗くなり、
山頂を目指す人々の電灯の光が、ジグザグに連なり、
宝石のネックレスのように輝いていました。

八合目に到達したとき、沖井君は高山病の症状が出てダウン、
山頂は断念して、山小屋で休むことになりました。それから夜通し歩き続けて、
陽が昇る寸前に山頂に到着、辛うじてご来光を拝むことが出来ました。

山頂の火口を背にして記念撮影をして、直ぐに下山、砂走りルートを、
ジャンプするするように下りてきました。麓に到着して道端に腰を下ろしたら、
一同枕を並べて討ち死に状態となりました。

八合目で高山病でダウンした沖井君は、ここまで来たらケロリと直って、
元気になってしまいました。それから山中野営場に戻って、荷物を受取り、
その夜の上野発の列車で、会津に帰ってきました。

平成29年12月25日
ハチス団委員 赤城良一