東蒲原第1隊のこと
昭和22年3月、私は会津中学校を卒業して長岡工専に入学しました。
そして、勉強のかたわら、長岡第1団でボーイスカウト活動をして、
昭和25年3月に卒業しました。
さて就職というときに、新潟県津川町(現阿賀町)の伯父から、
津川高等学校の先生にならないかと勧められました。
津川町は私の生まれ故郷で、母の実家の伯父の家で、
小学校入学まで住んでいたところです。
卒業後は、電力会社や電気メーカーに勤めたいと思っていましたが、
当時は空前の就職難時代、ボーイスカウト活動の体験もあったので、
高校の先生も悪くないと考え、津川高等学校の教師になることにしました。
教師生活が始まると間もなく、伯父を中心に、津川町にも、
ボーイスカウト隊を作ろうという話が持ち上がりました。
実はこの前年の昭和24年の5月5日、始めての「こどもの日」に、
津川町で、こどもの日の提案者の三島通陽総長の講演会が行われたのです。
これで一挙にボーイスカウト隊結成の気運が盛り上がり、私に、
その指導者にとの白羽の矢が立ったのです。
私は、小学校入学まで津川町に住んでおり、幼友達が大勢いたので、
協力を求めたところ、数名の友人が集まってくれました。そして、
彼らの弟たちを中心に隊員を募集したところ、30名もの中学生が集まり、
早速、活動を始めました。
親戚の長谷川健次郎君なども、三条市で行われた指導者講習会を受講して、
スカウティングの基礎を学び、訓練を重ねながら体制を整えて行きました。
こうして、育成会長には伯父の赤城源三郎氏、隊委長には、
町の有識者の佐藤寛治氏などが就任することが決まり、
ボーイスカウト隊としての形が整ったので、秋には加盟登録書を作成して、
新潟連盟に提出しました。
昭和26年1月11日には待望の加盟承認書が届き、
2月3日に東蒲原第1隊の加盟式を挙行することができました。
それまで、ハチスのスカウトたちを津川に連れてきて、交歓活動をしたり、
その後は、天神浜のキャンプに参加したりして、交流を深めました。
平成29年12月22日
ハチス団委員 赤城良一