星方位
大東亜戦争(太平洋戦争)が始まった昭和16年の翌年、
私は会津中学校に入学しました。そして、昭和19年10月、
4年生、5年生は川崎市の日本鋼管に、3年生になった私たちは、
川崎市のヂーゼル自動車(現いすゞ自動車)に動員されました。
宿舎は、川崎大師の門前の大師国民学校、生徒は地方に集団疎開して、
校舎は空っぽ、教室を2つに仕切って、私たちは生活を始めました。
朝6時に起床、隊列を整えて、約3キロの道を歩いて工場に入り、
工場の食堂で朝食を食べるのです。そして6時ごろ夕食を食べて寮に帰り、
あとは寝るまで、それぞれ勉強したり、お喋りの生活でした。
私は、トラックのエンジンのピストン削りの作をしましたが、
一つの旋盤を2人で昼夜交代で担当しました。昼勤は朝から午後4時まで、
夜勤はそのあと夕食を挟んで、8時まで作業しました。
12月になりますと帰り道は真っ暗、街は灯火管制で、街灯はもちろん、
住宅からも灯は漏れません。工場地帯の川崎も、当時は工場から出る煙はなく、
帰り道の空には満天の星が輝いていました。
木曜日は休電日で休日、先生に外出届を提出して、友人と誘い合って、
東京などに遊びに行っていました。そのころ、有楽町駅の近くに、
毎日天文館という施設があり、プラネタリウムが上映されていました。
私は、満天の星空から星座に興味を抱いたので、たびたび天文館に通って、
天体の話を学んでいました。いろいろな星座の名前や見つけ方、
そして、方位の発見法を学びました。
北斗七星やカシオペアによる、北極星の見つけ方は知っていましたが、
オリオン座の三つ星は、登るときは真東から垂直に登り、沈むときは、
真西に水平になって沈むことを学びました。
寒い夜道を空腹を抱えながらの帰り道も、この星空を眺めながら歩くので、
楽しみの一つになりました。
年が明けて昭和20年3月10日の夜、300機ものB29爆撃機の空襲で、
東京の下町は一夜にして焼け野原になりました。そして4月15日の夜、
私たちの頭上にもB29が襲来、焼夷弾の雨を降らせました。
防空壕に退避していた私たちは、壕から飛び出して校舎に突入、
懸命の消火活動をして校舎を守りきりました。
工場も爆撃の被害で生産活動が出来なくなり、5月ごろ、私たちは会津に帰ってきました。
そして、8月15日の終戦の日を迎えたのです。
天文館で学んだ星座の知識は、その後のボーイスカウト活動に、
大変役に立ちました。
スカウト・ソングの作成者の中村知先生は、「星方位」という歌を作詞し、
1.大熊座の杓の底の 二っの星を結びあい
5倍の長さに延ばしたら そこらにピカッと北極星
8.オリオン座の三つ星の 昇るを見れば 真東だ
沈むを見れば 真西です これで東西見分けます
と教えています。
1番から8番まで全部歌えれば、星による方位発見は、完璧と思います。
平成29年12月19日
ハチス団委員 赤城良一