五十嵐俊雄君のこと
昭和22年、秋月鏡観先生はボーイスカウト活動を始めようと考え、
西蓮寺の檀家の五十嵐俊雄君に声をかけ、協力を求めました。
俊雄君は私の1歳年上で、当時、確か19歳だったと思います。
鏡観先生は、手始めに近所の子どもたちを集めて、子ども会を作り、
五十嵐君の協力を得て、ハイキングなどの野外活動を始めました。
私も、俊雄君に誘われて、ボーイスカウト隊としての組織造り、
本格的な訓練を開始したのです。
俊雄君の家は、北小路町で畳屋を営んでおり、作業場が道路に面していて、
仕事の様子が道路から見えました。俊雄君は父親と一緒に仕事をして、
稲藁で畳床を作る機械操作の作業をしていました。
スカウトたちは、学校から帰ると西蓮寺に集まり、班集会をして、
進級テストの練習などをしていました。そして五十嵐畳屋の作業場に立ち寄り、
仕事中の俊雄君から話を聞きながら、機械操作の手伝いをしていました。
こうした家業のかたわら、俊雄君はキャンプにハイキングに、
私たちの先頭に立って、スカウティングに励まれました。
昭和23年には天神浜で始めてのキャンプを実施し、24年には、
柏崎隊と合同のキャンプを行いました。
25年は、学校からテントが借りられず、大川の河畔で、
木小屋を作ってキャンプをしましたが、パンツまで濡れる程の大雨に見舞われ、
一晩で帰ってきました。
そのころ、第一線で指導してきた俊雄君が、胸の病を再発させ、
病の床に臥せてしまったのです。私は俊雄君に代わって隊長になりましが、
スカウトの指導で疑問が沸きますと、すぐ彼の所に行って相談しました。
俊雄君は病床に臥して、殆ど外出しないのに、スカウト一人一人のことを、
私たちより良く知っていて、適切なアドバイスをしてくれました。
昭和27年の秋、久しぶりに、俊雄君と高橋大治君、宮森邦夫君と4人で、
鶴ヶ城に散歩に出かけました。芝生に腰を下ろして歓談する中で、
俊雄君は次のような話をしました。
「私は死ぬかも知れないが、私は死んでもボーイスカウトは止めない。
私は死んだら小鳥か鳩になって、お寺の屋根の上から皆の訓練を見ていたい。
私はあの世にはユニフォームを着て行くんだ」と。
昭和28年2月18日、俊雄君は遂に帰らぬ人となりました。
20日、多数のスカウト関係者の参列の中、葬儀が執り行われ、
隊委員会、リーダー、スカウトから、涙ながらの弔辞が捧げられました。
俊雄君はスカウトの制服を着て、ハチスのネッカチーフをかけて、
安らかに眠っていました。出棺の時、柩は隊旗で被われ、愛用のハットと、
ジャックナイフが、その上に乗せられました。そしてスカウト達の手によって、
雪道を霊柩車まで運んで行きました。
あれからもう64年、私は西蓮寺の門をくぐるたびに、「良ちゃん、
ハチスのことは頼んだぞ」と言う、俊雄君の声を聞く気がするのです。
平成29年12月11日
ハチス団委員 赤城良一