ハチス 思い出話(39)

12月8日という日

8月15日という日は、太平洋戦争で、日本が連合国に負けた日として、
知らない人はないと思います。しかし、12月8日はどういう日なのか、
知らない人も、かなり居るのではないかとと思います。

昭和11年、私は若松私立第二小学校に入学しましたが、
入学直前の2月26日、いわゆる二・二六事件が発生するなど、
戦争前夜のような雰囲気の時代でした。2年生になった昭和12年7月7日、
中国の盧溝橋で軍事衝突が起こり、支那事変(日中戦争)が始まりました。

当時、日本とドイツ、イタリアは、日独伊三国同盟を結んでおり、
私が3年生のとき、ドイツの少年団のヒトラーユーゲントが来日しました。
私たちは大町通りに勢揃いして歓迎、恰好いい制服姿に目を見張りました。
それから、彼らは飯盛山の白虎隊のお墓をお参りして行きました。

日本からは、ドイツ、イタリアに少年団を派遣、ドイツには秋月鏡観先生、
イタリアには高瀬喜左衛門先生が選ばれ、交歓活動の使命を果たされました。

私は、4年生になって第二白虎少年団に入団、5年生まで活動しました。
6年生になったとき、ボーイスカウトはイギリス生れの運動とのことで、
少年団日本連盟は解散させられ、その他総ての青少年団体とともに、
大日本青少年団に統合されました。私たちは学生服の左胸ポケットに、
2羽の赤いワシをかたどった、布の記章を縫いつけました。

昭和16年、私は城北国民学校の6年生になりました。
この年の暮れの12月8日、朝早く私は学校に登校して、
男子昇降口前の道路の清掃をしていました。空は快晴でしたが大変寒く、
白い息をしながら落ち葉を掃いて居ました。

そこに、校舎の中から、級友が「大変だ、アメリカと戦争が始まったぞ」と、
叫びながら走って来たのです。校舎に入ると、廊下のスピーカーから、
ラジオのニュースが流れていて、教室の中は大興奮、
日本空軍がハワイの真珠湾のアメリカ艦隊を攻撃して、
大戦果を挙げていることを放送していました。

その後は、日本の陸海空軍は連戦連勝、この戦争を大東亜戦争と名付け、
「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンで、勝利を目指して、
質素倹約の耐乏生活が始まったのです。

年が明けた昭和17年3月、私は城北国民学校を卒業、
会津中学校(現会津高校)に入学しました。制服は兵士の軍服と同じカーキ色、
戦闘帽に白線を巻いた制帽に、足にゲートルを巻いて通学しました。
新たに漢文、英語などのほかに、軍事教練が教科に加わり、
昭和20年8月15日の敗戦まで、続いたのです。

終戦の8月15日とともに、この12月8日は、日本国民にとって、
忘れてはならない日なのです。

平成29年12月8日
ハチス団委員 赤城良一