遠藤外与人先生のこと
ハチスが誕生したころ、現在の大和町の喜久屋パン店の向かいに、
遠藤医院という病院がありました。
院長の遠藤外与人先生には、4人の男のお子さんがおり、
長男の英彦君、次男の克人君、三男の蓁君は、揃ってハチスに入隊しました。
遠藤先生も鏡観先生のお話しを聞いて、特に育成会の設立に尽力され、
進んでハチスの隊委員に就任されました。
そして、自らユニフォームを着用され、医院の患者さんを始め、
逢う人、逢う人に、ボーイスカウトの重要性、素晴らしさを力説されました。
時には、ユニフォームを着たまま往診されることもあったそうです。
長男の英彦君は、私と一緒に副長を務め、富山の実修所に入所しました。
次男の克人君は班長、副長を務め、大変厳しい班長だったようです。
三男の蓁君は、一番の人気者で、一家が東京に転居された後も、
夏季隊キャンプや新潟の北信越大会に、ハチスの隊員として参加しました。
遠藤先生は、謹教小学校で行われた講習会にも、会場の確保、
受講生の勧誘に尽力され、100名もの規模の大講習会となりました。
昭和24年の第1回全日本ボーイスカウト大会に参加したとき、
現在の縞のネッカチーフが新調されましたが、このデザインは、
遠藤先生のアイデアだったそうです。
3年後、遠藤先生一家は東京に転居されました。謹教小学校での講習会で、
先生は三島総長、今井襄二講師と親交を深められていましたので、その後、
日本連盟の健康安全委員長会の委員長就任を要請され、就任されました。
その後、各日本ジャンボリーに参加され、健康安全部長として活躍されました。
特に、昭和42年、アメリカのアイダホ州で開催された、
第12回世界ジャンボリーに、派遣団第2団の団長として参加され、
団の代表として、参加者の健康安全の責任者として活躍されました。
このジャンボリーには、私や東誠一君も参加し、お世話になりました。
遠藤外与人先生は、ハチスの創設の大恩人だったことを、
忘れないで下さい。
平成29年11月29日
ハチス団委員 赤城良一