ハチス 思い出話(34)

第1回日本ジャンボリー

全日本ボーイスカウト大会については、思い出話(21)、
(28)で紹介しましたが、続いて昭和26年(1951)8月には、
山形県蔵王で第3回全日本ボーイスカウト大会が開催され、
ハチスは3年連続で参加しました。

日本連盟は第4回大会を、ジャンボリーとするよう、
全力を挙げて準備を進めました。そして、昭和31年8月3日から7日まで、
長野県軽井沢の草原で、待望の第1回日本ジャンボリーが開催されたのです。

海外からも13ヶ国のスカウトの参加、総勢1万3000名の仲間が、
浅間山の麓に大行事が展開されました。

ハチスも、会津若松市から預かった、大きな会津若松市章旗を持参して参加、
キャンプサイトに高い櫓を組み、会津隊の存在をアピールしました。

アリーナで行われた大営火では、各ブロックから演し物が演じられましたが、
東北ブロックからは、福島連盟が担当することになり、
ハチスが白虎隊の剣舞を演ずることになりました。

ハチス隊員の中には、会津高校の剣舞会の会員が大勢いたので、
キャンプサイトでも、余暇を利用して剣舞の練習を続けました。

大営火での演技時間は5分間とされていましたが、
白虎隊の剣舞は7分間かかるのです。進行係に7分間にしてと交渉しましたが、
認められません。仕方なく、予定通りに演技することにしました。

お祭騒ぎの演し物のあと、進行係の合図で入場を開始しました。
吟者の畑和男君を先頭に、十九名のスカウトが、白い剣道着に濃紺の袴、
背中まで垂れ下がる長い鉢巻きをして、アリーナ中央に静々と進み出ました。

それまで、賑やかだった会場が一瞬のうちに静まり、畑君の詩吟が流れると、
映画班の照明用の花火が点火され、薄暗い闇の中から、
十九士の姿がくっきりと浮かび上がりました。

照明用の花火から大量の煙が出て、これが軽井沢の冷気のため、
地面を這うように拡がって、戦場の砲煙のような効果を見せました。
いつの間にか、会場は水を打ったように静かになり、
時折「日本一」という掛け声までかかる雰囲気になりました。

進行係も、結局最後まで演技を続けさせてくれ、白虎隊士が退場を始めると、
堰を切ったように万雷の拍手と称賛の声が挙がりました。
スカウトにとっても、一生の思い出となったと思います。

平成29年11月23日
ハチス団委員 赤城良一