ハチス 思い出話(30)

山中実修所

昭和28年7月23日から31日まで、山中野営場で開設された、
第7回中央指導者実修所 実修所に、当時、ボーイ第2隊隊長だった私と、
ボーイ第1隊隊長の斎藤籐寿君と、二人一緒に入所しました。

山中野営場は、大正14年(1925)、少年団日本連盟理事佐野常羽先生が、
富士五湖の山中湖の近くの森の中に、指導者訓練所を開設したところで、
ボーイスカウト運動のメッカとされていた所です。

ここで開設される実修所に入所しなければ、指導者として、
一人前と言えないという風潮があり、競って入所した時代でした。
入所生は8名×4班の32名、上級班長をはじめ隊付などの所員も、
戦前からの経験者で、素晴らしい陣容でした。

この時の所長は、多くのスカウト・ソングの作詞作曲をされた、
古田誠一郎先生でしたので、多くのソングの指導がありました。

今回も、中村知先生の時のように、毎日、新しいソングの楽譜が配布され、
翌日の朝のセッションで、各班ごとに練習の成果を発表させられました。
「リュックサックの歌」、「森の仲間」などの楽譜が配布されましたが、
やはり楽譜の読める入所生が少なく、斎藤君の班と私の班の競演となりました。

8泊9日の長期間なので、プログラムも立ち木の伐木、信号塔組み立て、
山中湖一周一泊旅行、生きた鰻の料理など、初体験の連続でした。
野営場の中に、臨雲寮という木造の建物があり、
そこではカブ課程の研修が行われました。

山中野営場は、浦田太一郎氏が場長として、奥様と二人で生活しながら、
管理しておられました。当時、大学生だった五十嵐英雄君と石井久雄君が、
アルバイトとして奉仕して、浦田夫人と大変可愛がられたと言っていました。

平成29年11月12日
ハチス団委員 赤城良一