戦前、若松市には、第一小学校から第四小学校までの、四つの小学校に白虎少年団があり、それぞれ、第一小学校は第一白虎少年団、第二小学校は、第二白虎少年団と称していました。
白虎少年団は、ベーデンパウエルが創設したボーイスカウト隊ですが、用語には英語でなく、出来るだけ日本語を用い、スカウトは健児と呼ばれていました。
スカウトである健児の服装は、現在のボーイスカウトの服装とほぼ同じで、この制服を着用するには、ある程度の費用がかかりました。
そのため、恵まれた家庭の子どもでないと、入団は困難だったようです。
私が入団した第二白虎少年団(城北小)は、男子2クラスで、合計100人ほどの人数でしたが、少年団に入団したのは20名ほどでした。
このような少年団でしたので、戦後、私たちがスカウト運動を始めたとき、街の人たちは、金持ちの集まりだと言っていたものでした。
しかし、いざスカウト活動を始めると、北小路町を中心に、大和町、七日町、針屋名子屋町など徒から、続々と子どもたちが集まってきて、たちまち32名の定員を超えてしまいました。
昭和24年に日本連盟の誕生と同時に、若松第1隊が登録しましたが、早くも、翌25年には若松第2隊として登録、2隊編成で活動を始めたのです。
今日はここまで、次をお楽しみに。
平成29年7月26日
ハチス団委員 赤城良一