ハチス 思い出話(29)

アメ横の思い出

皆さんは、東京の上野駅と御徒町駅の間の、高架橋の下に並ぶ、
「アメ横」と呼ばれる商店を知っていると思います。

アメ横は、正式名称はアメ横商店街というそうですが、私は、
アメリカ横丁が語源と思っていました。

昭和16年12月8日に大東亜戦争が始まりましたが、
18年ごろから、アメリカの爆撃機B29による、日本本土の空爆が激しくなり、
特に、19年から20年にかけての空爆で、
東京は文字通り焼け野原になってしまいました。

戦争は、昭和20年8月15日に、敗戦として終戦となりましたが、
その後の東京都民は、まさに、食うや食わずの生活となりました。
特に、砂糖が手に入りにくかったので、引揚者会が飴などを販売したところ、
大好評を博し、その後、手作りの菓子や野菜など、
いろいろな食べ物を売る店が並ぶようになりました。

そうした中で、アメリカ進駐軍が放出した物資を売る店も出てきて、
中古品ですが、品質が良かったので、人気がありました。

昭和26年、私は東京に勤めていたので、時々アメ横を訪れ、
進駐軍の放出品を買い求めていました。

アメリカ兵士の軍服は、色も形もボーイスカウトの制服とそっくりでしたので、
連盟章や各種記章を縫いつければ、そのまま恰好いい制服になりました。
装備品もいろいろあって、折り畳み式スコップなどは、
今も我が家で重宝に使用しています。

さらに、コンパス、寝袋、エアマット、フライパン、2人用テントなど、
今もハチスの倉庫に眠っているかも知れません。

当時の指導者は、戦後の厳しい生活の中で、こうした進駐軍の放出品などで、
キャンプ用品を整え、スカウトの指導に当たっていたのです。

平成29年11月9日
ハチス団委員 赤城良一