アメ横の思い出
皆さんは、東京の上野駅と御徒町駅の間の、高架橋の下に並ぶ、
「アメ横」と呼ばれる商店を知っていると思います。
アメ横は、正式名称はアメ横商店街というそうですが、私は、
アメリカ横丁が語源と思っていました。
昭和16年12月8日に大東亜戦争が始まりましたが、
18年ごろから、アメリカの爆撃機B29による、日本本土の空爆が激しくなり、
特に、19年から20年にかけての空爆で、
東京は文字通り焼け野原になってしまいました。
戦争は、昭和20年8月15日に、敗戦として終戦となりましたが、
その後の東京都民は、まさに、食うや食わずの生活となりました。
特に、砂糖が手に入りにくかったので、引揚者会が飴などを販売したところ、
大好評を博し、その後、手作りの菓子や野菜など、
いろいろな食べ物を売る店が並ぶようになりました。
そうした中で、アメリカ進駐軍が放出した物資を売る店も出てきて、
中古品ですが、品質が良かったので、人気がありました。
昭和26年、私は東京に勤めていたので、時々アメ横を訪れ、
進駐軍の放出品を買い求めていました。
アメリカ兵士の軍服は、色も形もボーイスカウトの制服とそっくりでしたので、
連盟章や各種記章を縫いつければ、そのまま恰好いい制服になりました。
装備品もいろいろあって、折り畳み式スコップなどは、
今も我が家で重宝に使用しています。
さらに、コンパス、寝袋、エアマット、フライパン、2人用テントなど、
今もハチスの倉庫に眠っているかも知れません。
当時の指導者は、戦後の厳しい生活の中で、こうした進駐軍の放出品などで、
キャンプ用品を整え、スカウトの指導に当たっていたのです。
平成29年11月9日
ハチス団委員 赤城良一