ハチス 思い出話(24)

沖縄のハンドブック

昭和20年、日本が戦争に負けると、アメリカの進駐軍が日本に上陸し、
皇居の近くの第一生命館に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)を置き、
日本を統治しました。

GHQは、ボーイスカウト運動の育成に積極的に取り組み、
そのため、他の団体に先駆けて、国際的機構に仲間入りが出来たのです。

ハチスも、いち早く活動を開始したものの、指導者の手引き書といえば、
週刊誌の半分の大きさで、僅か130ページの、
「ボーイスカウト・ポケットブック」1冊だけでした。

この本は、指導者だけでなく、スカウトたちも持っていましたので、
手旗や結索法などの技術修得は、リーダーとスカウトの競争でした。

アメリカのスカウトが持っているハンドブックは、
現在の日本連盟発行の、「ボーイスカウト・ハンドブック」のような、
立派な冊子でしたが、手に入れても、オール英語でイラストだけが頼りでした。

ところが、当時の沖縄県は、完全なアメリカの占領下にあり、
植民地のような状況でした。道路の通行は右側通行で、
交通標識などはすべて英語標記、言葉だけは日本語でしたが、
完全なアメリカの植民地でした。

そうした中で、ボーイスカウト運動も誕生しましたが、
日本連盟でなく、アメリカ極東連盟琉球地区の所属となり、
制服などの装備も、アメリカ連盟のスカウトと同じ物を使用していました。

沖縄のスカウトが持っている「スカウト・ハンドブック」は、
アメリカの英語版の「ハンドブック」を、そっくり日本語版にしたもので、
スカウト全員が所持していたのです。

しかし、私たちには簡単に手に入れることが出来ず、
幻の「ハンドブック」だったのです。

その後、昭和27年(1952)にサンフランシスコ講和条約発効によって、
日本の主権は回復しましたが、沖縄はそのままアメリカの管理のままでした。

戦争が終わって20年以上も立った昭和46年(1971)、
ようやく沖縄返還協定が調印され、その翌年に日本へ復帰したのです。

これによって、沖縄のボーイスカウトは、沖縄連盟として日本連盟に加入、
それまで日本ジャンボリーなどに、ゲストとして参加していましたが、
日本連盟の加盟員として参加するようになりました。

そのころになると、日本連盟発行の「ハンドブック」も充実し、
「救急法」や「結索法」、「ソング集」など、
分野別の「ハンドブック」も発行されるようになりました。

平成29年10月8日
ハチス団委員 赤城良一