ハチス 思い出話(17)

ハチス育成会のこと

今日は、ハチス育成会総会、久しぶりに皆さんとお逢いするのを、
楽しみにしています。

昭和24年、ハチスが登録発隊したとき、ハチス育成会も誕生しました。
初代の育成会長は、富田栄吉先生、翌年には斎藤籐寿君のお父さんの、斎藤幸作さんに代わりました。

隊が成長して、活動も活発になり、隊員数も増えてきますと、育成会の会員も増え、
昭和28年からは、大善屋呉服店のご主人の、畑喜七さんが会長を引き受けて下さいました。

当時の育成会は、スカウトの父母だけでなく、広くボーイスカウト運動に協力しようとする、
町内の方々にも会員になって頂いていました。
そのため、5㎝四方の小さな紙に、スカウト章を印刷した会員証を作成して、
各家庭の玄関に、貼り付けてもらい、会員の増加を図りました。

畑さんは、貫祿のある、どっしりとした体格の方で、いつも和服姿で出席しておられました。

ちょっと怖い感じの方でしたが、大変ひょうきんな方で、
懇親会などでは、捩り鉢巻で踊りを躍るなど、会員はもとより指導者たちからも大変人気のある方でした。

ハチスの縞のネッカチーフを、作って下さるなど、大変お世話になりました。
しかし昭和57年、畑会長は逝去され、そのあと、大町(旧紺屋町)の、
星胃腸科病院の星弘美先生が、育成会長を引き受けて下さいました。

星先生はボーイスカウトの訓練にも参加され、救急法の指導もされ、
野営大会などにも参加され、救急本部などでもご奉仕されました。

残念ながら、星弘美先生は、昭和63年に逝去され、
そのあとは、スカウトとして活躍された五十嵐薬局の五十嵐康善さんが、
育成会長を務められ、現在の宮森浩さんへとバトンが渡されたのです。

いま、育成会は、保護者会のような組織になっていますが、
本来の目的は、ボーイスカウト運動の協力者の団体だったのです。

平成29年9月10日
ハチス団委員 赤城良一