ハチス 思い出話(13)

ハチス誕生のときの役員たち

昭和24年2月20日、ハチス隊は日本連盟に登録、名実共にボーイスカウト隊となりました。

隊長は秋月鏡観先生、当時は団という組織はなかったので、隊委員長に元白虎少年団の栗城謙隆先生、五十嵐俊雄さんと私は副長となり、育成会長は富田栄吉先生でした。

大和町に開業していた遠藤医院の遠藤外与人先生は、長男が私の1歳下の英彦君、次男が克人君、三男の蓁(しげる)君で、三兄弟が揃って入隊したので、外与人先生は進んで隊委員として活動されました。

外与人先生はいつもボーイスカウトの制服を着用され、往診にも制服姿で診察に出かけるので、遠藤先生は、頭が少し奇怪しくなったのかな、という人も居たようでした。

数年後、遠藤一家は東京の杉並区に転居されましたが、外与人先生は、早速ボーイスカウトに連盟を訪れ、ボーイスカウト運動への協力を申し出られました。

日本連盟は渡りに舟と、健康安全委員会の委員長に委嘱し、ジャンボリーや各種大会の、救急本部長などの重責を勤められました。

私たちが、隊旗を先頭に各種大会に参加するとき、本部には必ず遠藤先生の姿があり、心強く思っていたものです。

長男の英彦君は私と一緒に、北信越実修所に入所し、三男の蓁君は、東京に転居したたあとも、ジャンボリーなどに、ハチスの隊員として参加、活躍していました。

その後、隊・団委員長に秋月鏡観先生と、高瀬喜左衛門先生(後の会津若松市長)が就任され、団委員には田澤豊彦団委員長のお父さんの田澤竹雄さん、私の母、星トーヨー洋服店の星東洋さん、五十嵐畳屋の五十嵐利安さんなど、北小路界隈の8人の方々が熱心に活動して下さいました。

隊長には、五十嵐俊雄さんや私、そして斎藤籐寿君が務めました。

育成会長には大善屋呉服店の畑喜七さんが、長期間にわたって務めて下さいました。

こうした方々のご努力があって、今日のハチスがあることを、記憶に止めておいてほしいのです。

平成29年8月27日
ハチス団委員 赤城良一