ハチス 思い出話(98)

宮森邦夫君のこと

ハチスの創成期のころ、宮森邦夫君というリーダーが居りました。
キャンプ訓練にはあまり参加しませんでしたが、プログラムの立案などに、
ユニークなアイデアを提案して、ハチスの団活動に貢献しました。

宮森邦夫君は、大和町のはとや食堂の向かいあった、宮森電器店の長男で、
私の一年後輩でした。小学生のころは家業の電器より本が好きで、
親戚である七日町の文栄堂書店で、本を読みながら店番をしていました。

その頃、私は雑誌「少年倶楽部」を講読していましたので、毎月、
北小路の私の家に届けてくれていましたので、その頃からの親友でした。
昭和23年に会津中学校を卒業すると、東京上野の書店に住み込みで勤務して、
書店の経営の修行をしていました。

夜、書店が閉店すると、近くにあった鈴本演芸場に行って、
毎晩のように落語を聞いていました。殆ど毎晩のように通っていたので、
同じ噺を何回も聞いていたと言います。円生、志ん生、三木助、金馬、三平、
小さん、文楽などなど、昭和の名人たちの噺でしたので、同じ噺でも、
飽きることはなかったと言っていました。もともと、話の上手な人でしたが、
この寄席噺を聞いて、さらにユーモアたっぷり話術に磨きがかかりました。

会津に戻ってきてからは、電器店を経営しながら、ハチスの指導者として入団、
いろいろなプログラムを企画して、他の団では考えないような活動をしました。
この「思い出話」でも紹介した、市公会堂での「スカウトの夕べ」、
十日市の「スカウトの店」の出店、大晦日の鶴ヶ城の「除夜の鐘撞き」など、
ユニークな企画を考え、関係者との交渉もしていました。

特に、ハチスのシンボルとして、トーテムポールを建てようと、
電力会社から電柱の廃材を払い下げてもらい、4mほどの長さに切りました。
リーダーが力を合わせて鑿で刻み、頭部の彫像はウサギの形にして、
それに、ハチスの縞のネッカチーフを刻みました。完成したトーテムポールは、
西蓮寺の門の左裏にある、納骨堂の側に建立しました。

このポールは、特にカブたちの人気を集め、しばらく愛されていましたが、
もともと廃材でしたので、数年経って朽ち始め、残念ながら撤去されました。

スカウト活動から離れてもボランティア活動を続け、交通整理指導員として、
制服を着て、毎朝、北小路の石井商店の角に立って、指導をしていました。

この宮森邦夫君は、昭和5年8月22日生れで、私は昭和4年8月24日生れ、
ほぼ1年違いでした。従って、彼が誕生日を迎えると私と同じ歳になるのです。
もともと親しくして、酒を飲みながら談笑することが多かったのですが、
平成の時代を迎えたとき、互いに高齢になったので、二人の誕生日の中日に、
二人の誕生会をやろうと、毎年、8月23日にお喋り会をを楽しんでいました。

宮森邦夫君は、落語の知識が豊富なので、私が落語に出てくる言葉を使うと、
即座に反応して話がはずむのです。互いにツーカーの仲なので、
2時間も3時間も、二人っきりで飽きずにお喋りしていました

このような誕生会をずっと続けてきましたが、平成16年8月になって、
宮森君は体調不良で竹田病院に入院しました。その事を知った私は、
22日に見舞いに行きましたが、すでに、末期的症状でした。
私は「明日は、二人の誕生会だから、元気を出して」と言いましたが、
微かに頷くばかりでした。

翌23日、長男の将之君から、邦夫君が亡くなったとの連絡がありました。
まさに二人の誕生会の当日で、彼の誕生日の翌日だったのです。
あれから15年、私も今年の誕生日で満90歳になります。
私の永い人生の中で、これほど永く、親しくしていた友人は居りません。

「平成」の時代も間もなく終り、「令和」を迎えますが、
この「思い出話」も、「ハチスの思い出」から視点を替え、
新しい思い出話を送信したいと考えていますので、どうぞご愛読下さい。

平成31年4月5日
  ハチス団委員 赤城良一