ハチス 思い出話(97)

ニッポンかジャパンか

昭和24年にボーイスカウト日本連盟が誕生して、今年は70周年を迎えました。
ご存じの通り、我がハチスも同時に登録し、70周年となります。

ボーイスカウト日本連盟の最初の総長は、三島通陽先生でした。
戦前は少年団日本連盟と称しましたが、それを含めると4代目の総長です。
栃木県那須塩原市ある、日本連盟那須野営場は、三島家の別荘の土地で、
その後日本連盟に譲渡され、全国の指導者の訓練場として利用されています。

三島通陽総長の祖父は福島県令三島通庸、NHKの大河ドラマ「いだてん」で、
ストックホルムオリンピックで、短距離を走った三島弥彦は叔父に当たります。

久留島秀三郎氏は、昭和29年(1954年)に三島通陽総長の後を受けて、
第5代ボーイスカウト日本連盟総長に就任されました。
久留島秀三郎総長は明治21年の生れで、旧姓は中野秀三郎と言いました。

久留島総長の実兄は中野忠八先生で、京都で初めてスカウト活動を始められた、
大先駆者です。京都の大谷大学の学生だった、わが秋月鏡観先生は、
この中野忠八先生から、直接、スカウティングの神髄を学ばれたのです。

久留島総長の義父は久留島武彦と言い、日本童話連盟を設立して、
全国の幼稚園、小学校を訪問して、童話をお話しする活動をされました。
久留島武彦氏はボーイスカウトかにも参加され、デンマークで行われた、
第2回世界ジャンボリーに、日本の派遣団副団長として参加しています。

久留島秀三郎総長は、鉱山技師で工学博士、多くの会社の社長、会長を務め、
昭和19年には昭和鉱業株式会社社長に就任しましたが、昭和21年には、
社名を同和鉱業株式会社と改めました。この「同和」という名称は、
久留島武彦氏から受け継いだ「童話活動」に因んだものと聞いています。

昭和46年、静岡県朝霧高原で行われた、第13回世界ジャンボリーの後、
ボーイスカウト日本連盟の英語名を、それまで、
「Boy Scout of Japan(ジャパン)」と標記していたものを、
「Boy Scout of Nippon(日本)」 とすべきと主張して改正しました。
日本の国名は「ジャパン」でなく、「ニッポン」であるという、
強い信念があったようです。

制服の国名票も「Boy Scout of Nippon」となりましたが、「Nippon」は、
国際的に通用しないとの理由から、英語表記は平成13年に、
「Scout Association of Japan」に変更されました。特に、平成7年から、
女子スカウトの入隊が認められたので、「Boy」の表記はなくなりました。

日本の英語の正式国名は「Japan」とされていますが、
私はやはり「Nippon」にしてほしいと思っていますが、皆さんはどうですか。

平成31年3月31日
  ハチス団委員 赤城良一