ハチスの分封
「分封」を辞書で見ますと、「領地を分け与えて、その地を支配させること」、
「春や夏に、ミツバチ類に新しい女王蜂が出現したとき、
今までの女王蜂を含む一群が、古い巣を譲り渡して新しい巣を作ること、
巣分かれ(分蜂)」とあります。
昭和24年、日本連盟が発足と同時に会津若松第1隊(ハチス)が登録、続いて、
昭和25年、会津若松第2隊(ハチス)が登録、
昭和25年、会津若松第3隊(行仁・福島第7団)が登録、
昭和26年、会津若松第4隊(ヒカリ・福島第15団)が登録、
昭和34年、福島第39団(南町)が登録、
昭和42年、福島第50団(会津児童園)が登録、
昭和42年、福島第52団(ザベリオ教会)が登録しました。
このころ会津では、この他に福島51団(本郷町)、福島第73団(猪苗代)
福島第74団(会津坂下町)、福島第82団(北塩原村)などが続々と誕生し、
まさにボーイスカウト運動の最盛期を迎えたのでした。
ところで分封ですが、ハチス第2隊が誕生したのは、第1隊の隊員が急増して、
2個隊編成にせざるを得ない状態になったのです。しかし、活動はそのまま、
一緒に活動していましたので、完全な分封ではありませんでした。
昭和23年の十日市に、隊の活動資金を作ろうと、七日町の三原時計店前に、
露店を開きました。そこに訪れたのが本光寺の沖井道雄さんで、
自分もボーイスカウト隊を創りたいと相談されました。
直ちに鏡観先生にお逢いになり、ボーイスカウト隊創立の相談をされました。
当時、本光寺の近くで自転車店を営んでいた斎藤善一君が、
石井君の家で働きながら、ハチスのスカウトとして活動していました。
本光寺では、斎藤善一君を中心にスカウトを募集、彼をハチスから移籍して、
上級班長にして活動を開始、昭和26年に会津若松第4隊として登録しました。
分封とは言えませんが、ハチスから巣分かれしたと言えるでしょう。
昭和42年、西栄町のカトリック教会には、ザベリオ学園があり、
ロペス神父さんが、ボーイスカウト隊の創立を考えていました。
ザベリオ学園の生徒の中には、数名のハチスのシニア・スカウトがおり、
彼らを中心ににして、隊を創設したいと言うのです。
ハチスでは、早速、団会議を開催して相談した結果、会津のスカウト運動の、
発展につながるので、喜んで、学園の生徒の移籍を決めたのでした。
その後、順調に準備を進め、4月には登録が承認され、4月29日には、
ザベリオ学園の校庭で、福島第52団の結団式を挙行しました。
まさに、ハチスからの分封で、蜂の巣の分蜂だったのです。
平成30年12月10日
ハチス団委員 赤城良一
第52団結成式・ザベリオ学園 第52団結成式・ちかいの式
第52団結成式・ネッカチーフ授与 当時のハチス・シニアスカウト隊員