ディープ・スカウトの試み
ハチスが誕生したのは昭和22年、23年にはボーイスカウト隊として、
活発な活動を開始していました。東京では戦前の少年団関係者が集まり、
ボーイスカウト運動再建の準備が始まり、我が秋月鏡観先生も参加されました。
昭和24年には日本連盟も創立され、ハチスもいち早く登録しました。
日本連盟が発足したとき、スカウト隊員は中学生を対象にしていましたが、
ハチスの隊員、石井久雄、赤城史朗君らは、すでに高校生になっていました。
ハチスではこの高校生隊員を、中学生隊員と一緒の活動はできないと考え、
上級班を編成して活動することにしました。
そこで中学生隊には、ライト・スカウト隊と名付け、高校生スカウト隊には、
ディープ・スカウトという名称にして、より野性的な活動を実施しました。
ディープ・スカウトは、一泊旅行や登山、キャンプ場の開拓作業、
樽筏(たるいかだ)の作成などをして、ライト・スカウトの活動の援助をしました。
また、隊の日誌を作成し、ハイキングの詳細な野帳も記入していました。
また、謄写版刷りの「ハチス月報」という、新聞の発行もしていました。
さらに、育成会委員会の準備をしたり、ときには委員会に出席して、
活動報告をしたり、意見を述べたりしました。
日本連盟では、スカウトの成長に対して、初級、二級、一級の上に、
菊、隼、不二スカウトのプログラムを設け、高校生対策をしました。
そして、昭和27年になって、漸く中学生隊員と高校生隊員の組織を分離して、
少年スカウトと年長スカウトとして、活動することになったのです。
年長隊は、シニア・スカウトとして活動を開始しましたが、各団とも、
高校進学を機に退団する傾向があり、各団はシニアの訓練に苦労していました。
私は、スカウト運動の発展は、シニア・スカウトの活動の活性化にあると考え、
福島連盟として、隼章の取得を目指す、訓練会を実施することにしました。
昭和52年4月、実行委員会を開催して計画を進め、8月6日から10日まで、
天神浜で、第1回ばんだい隼訓練を開設しました。所長には私が担当し、
隊長は保原の滝沢市郎氏にお願いしました。
県内各団から25名のスカウトが集まり、各地区のシニア指導者も、
所員として奉仕してくれました。そして、「水難救助」の訓練、筏作り、
猫魔岳登山と雄国沼一泊旅行など、多彩なプログラムに挑戦しました。
特に、キャンプファイヤでは、佐藤利三郎先生が夜話で戦争体験を語り、
ボーイスカウト運動に対する熱い思いをしみじみと語られ、
スカウトたちに深い感銘を与えました。
初回とは言え、大きな成果を挙げ、その後も引き続き毎年実施され、
スカウティングの活性化に繋がったと考えています。
平成30年11月28日
ハチス団委員 赤城良一
ディープ・スカウトたち 東山ハイキング
ハチス日記 ばんだい隼訓練・天神浜