ハチス 思い出話(72)

福島連盟「先達の碑」

昭和54年、福島連盟は創立30周年を迎え、9月、県青少年会館の講堂で
福島連盟創立30周年記念式典が挙行されました。式典の前日、
福島市黒岩の満願寺で、福島県のボーイスカウト運動に尽力され、
逝去された先覚者の追悼法要を行いました。法要のあと座談会が行われ、
先覚者の業績を讃えるため、「先達の碑」を建てようとの提案が出ました。

こうして、翌年の昭和55年12月14日、福島愛育園のつつじが森野営場に、
「先達の碑」を建立し、入魂法要を行いました。「先達の碑」の題字は、
松平勇雄連盟長が揮毫され、碑の表面には、はがき大の銅板一枚一枚に、
物故者の氏名と簡単な功績を刻んで張りつけました。

このとき、合祀されたのは14柱で、ハチスの五十嵐俊雄君も合祀されました。
その後、5年ごとに各地区から該当者の提案を受け、名誉会議で審議して、
合祀してきました。これまでハチスからは、次の方々が合祀されました。

五十嵐俊雄  昭和 3年11月 4日生 昭和28年 2月18日没
     昭和23年、ハチス誕生に協力、ボーイ隊長として活躍するほか、
     指導者講習会に講師として活躍、福島連盟の創設に貢献しました。

畑  喜七  明治33年 9月26日生 昭和57年12月24日没
     大町の大善屋呉服店の社長で、昭和28年、畑和男君の入隊とともに、
     ハチスの育成会長に就任され、30年間の長期間、会長を務められ、
     さらに、会津地区協議会長も、30年間務められました。

星  弘美  大正 6年 3月18日生 昭和63年 6月28日没
     大町の星胃腸科医院の院長、昭和31年、長男弘一君、次男健二君が
     ハチスに入隊するとともに団委員に就任され、隊キャンプや、
     指導者講習会などで、救急法の指導をされ、県野営大会では、
     健康安全部長として活躍されました。

秋月 鏡観  大正 4年 3月 5日生 平成 7年12月16日没
     戦後、いち早くハチス隊を発隊させ、日本連盟の創立にも尽力、
     福島連盟発展の大功労者です。日本連盟の各種役員も歴任され、
     特に音楽委員としても指導的立場で活躍しました。

赤城 史朗  昭和 8年 6月22日生 平成14年 4月26日没
     私の弟で、赤城圭一君の父、ハチス創立時からのスカウトで、
     ボーイ隊長を歴任、福島連盟コミッショナーとして活躍しました。
     圭一君がウッドバッチを取得したとき、理事長だった私から証書を、
     県コミッショナーの父が、ウッドバッチを授与しました。

石井 久雄  昭和 9年 1月22日生 平成26年12月31日没
     石井淳一君の父で赤城史朗君の同級生、ハチス創立時のスカウトで、
     ボーイ隊長を歴任、昭和50年ごろALSという難病を発症しましたが、
     車椅子を利用しながらも、福島連盟理事などの要職を務めました。

秋月 亨観  昭和 9年11月 2日生 平成27年 2月27日没
     ハチスの創立者鏡観先生の亡きあと、団委員長として活躍、
     特に、指導者の親睦、育成に尽くされ、成果を挙げられました。
     また、福島連盟理事、会津地区協議会長として活躍されがら、
     日本連盟音楽委員に就任、スカウト・ソングを創作されました。

平成元年、北小路の五十嵐畳屋が火災になったとき、石井淳一隊長が、
猛火の中に敢然と飛び込み、五十嵐俊雄君のお母さんを救出し、
日本連盟から、人命救助による褒状を受賞しました。

平成7年、京都で開催された日本連盟全国会議で、石井久雄団委員が、
たか章を授与されました。このとき石井君は多くの表彰者のトップに呼名され、
奥さんが押す車椅子でステージに登場、渡邉昭総長自ら授与されました。
その感動的な場面に、満場の出席者から、祝福の拍手が沸き上がりました。

平成30年6月3日
  ハチス団委員 赤城良一