ハチス 思い出話(69)

12回世界ジャンボリー(2)

昭和42年7月29日夜、私たちは、第12回世界ジャンボリー参加のため、
羽田空港を飛び立ちました。アラスカのアンカレッジで、給油のため一時着陸、
サンフランシスコ空港で入国手続をしました。ウエスタン航空に乗り換えて、
シアトルからはコンチネンタル会社のバスで、30日の正午ごろ、
ジャンボリー会場に到着しました。

会場は、アメリカ北部のアイダホ州ファラガット州立公園で、標高が720m、
日中の最高気温は約30℃もありましたが、湿度が20%以下なので、
全然汗が出ませんでした。しかし、夜になると、気温は7℃前後に下るので、
夜の行事には、ジャンパーなどが必需品でした。

キャンプサイトは、添付のPDFの図面のように、楕円形のエリアを2分割した、
10個の土地がサブキャンプとされました。私の第8団は第10サブキャンプの、
ボゲレンザングというサイトに設営しました。サイト名は過去11回の、
世界ジャンボリーの開催地の、地名が付けられたものでした。

各派遣団には、30m四方の正方形のサイトが与えられ、それぞれ、
工夫を凝らした門を造ったりしましたが、日本派遣団は、共通して、
国旗とともに、鯉のぼりを掲揚していました。

8月1日8時30分から、中央広場でオープニング・セレモニーが行われ、
89本のポールに、参加国の国旗が一斉に掲揚されました。夜、8時30分から、
サトン・パーク・アリーナで開会式が行われましたが、創始者、
ベーデン・パウエル夫人も、元気な姿で出席されました。会場は、
半擂鉢型の斜面で、広いステージには、巨大なスクリーンが3面設置され、
挨拶をしている人の姿が投影されました。

会場内には、冒険コースが設置され、隣接するペンドオレイル湖には、
水泳場や魚釣り場が設けられ、団ごとに参加していました。
また、宇宙船コーナーが設置してあり、実際に宇宙から戻ってきた宇宙船や、
ボーイスカウト出身の宇宙飛行士の写真が展示してありました

ジャンボリー恒例の友情ゲームは、F、R、I、E、N、D、S、H、i、Pの10種の文字カードを、
一人1文字ずつのカードを渡され、“FRIENDSHIP”の語を造るゲームでした。
私も、仲間に入れてもらいましたが、初めての体験でした。

広い会場内には、循環バスが運行していましたが、私がバス停に待っていたら、
映画俳優のジェームス・スチュアート氏がオープンカーで来場され、
スカウトたちを激励して、各サイトを巡ってくれました

8月4日はロデオ見物があり、バスでクードアレンという町に行きました。
陸上競技場より少し小さい会場で、お馴染みのあばれ牛に乗ったり、
子牛に投げ繩をかけたりの競技が行われました。他にアトラクションとして、
バットマンが登場したり、木登り競争など、迫力ある競技に目を見張りました。

8月6日は日曜日、午前9時半から、各宗教ごとに日曜礼拝が行われました。
スカウトたちも、それぞれの家庭の宗派の会場に参加しましたが、私は、
仏教の礼拝所に参加しました。司祭は、主に日本の指導者の僧侶の方々でした。

8月9日は最終日、午後8時からアリーナでファイナル・ショーが始まり、
各サブキャンプから、ダンスなどのショーが披露されました。
日本隊は第3隊が代表して花笠音頭を踊り、大スクリーンに映し出されました。

途中で、宇宙飛行士のカーペンター少佐が搭乗、スピーチをしていると、
別の飛行士が、真っ白な宇宙服にジェット推進機を背にして登場、
いきなり耳も裂けんばかりの金属音を発して、空中に飛び上がりました。

そして、30m程の高さで、観覧席の上をぐるりと一周して、再び、
もとの場所に着陸しました。ほんの数秒間でしたが、会場のスカウトは、
ただ驚くばかり、しばらくして、嵐のような歓声が湧き上がりました。

8月10日、朝から帰り支度をして、午後5時ごろ、各隊ごとに8台のバスに乗車、
アメリカ西部開拓史の研修に出発しました。

平成30年5月7日
  ハチス団委員 赤城良一