ハチス 思い出話(67)

「不如帰」とBS

皆さんは「不如帰」という小説を知っていますか。明治時代に、
新聞に連載された、徳冨蘆花の小説です。「武男」という青年と、
「浪子」という女性の悲劇で、「千年も万年も生きたいわ」という名台詞で、
日本中の読者の涙を流させた小説でした。

ところが、この武男と浪子は、福島県令三島通庸の長男彌太郎と、
薩摩藩士で陸軍大臣になった、大山巌の長女の信子だったことは、
当時の人には、誰の目にも明らかだったのです。

三島通庸の長男彌太郎は、後に日本銀行総裁になりましたが、
戦後の初代ボーイスカウト日本連盟総長だった三島通陽先生は、
彌太郎の長男で、福島県令(知事)三島通庸の孫にあたります。

一方の大山信子(浪子)は、三島彌太郎(武男)と結婚しましたが、
数カ月で結核を患い、二十歳の短い生涯を閉じてしまったのです。
大山信子の母大山沢子は、四女留子を出産して一ヵ月後に急逝しました。

妻を失った大山巌は、アメリカ留学から帰国した、会津出身の山川捨松に求婚、
敵軍の大将との結婚に、家族は大反対でした。それを押し切って結婚、
つまり信子(浪子)の継母となったのです。ところが小説「不如帰」では、
捨松を意地悪な後妻「繁子夫人」として登場させています。

病弱だった信子(浪子)を、献身的に看護した捨松を、鬼の様な継母と描かれ、
大山家では、極端に歪曲されたストーリーに憤り、悔し涙を流したといいます。
大山家には、長女信子のほかに、次女美津子、三女芙蓉子、四女留子がおり、
捨松は、その4人の子どもたちを、立派に育てたのです。

この四女の留子は、成長して、信州高島藩の渡邉千秋の次男千春に嫁ぎ、
その長男として誕生したのが、渡邉昭氏です。この人こそ、戦後2代目の、
ボーイスカウト日本連盟総長なのです。

大山留子に渡邉昭氏が誕生し、大山信子の結婚相手の三島彌太郎には、
三島通陽氏があり、いずれも、会津出身の山川捨松と、
強い絆で結ばれていたことに、大変愉快な気持ちになるのです。

ちなみに、渡邉昭総長は、昭和天皇の最後の御学友で、
103歳の天寿を全うされました。ご長男の渡邉允氏は、
今上天皇の侍従長を務められました。

平成30年4月17日
  ハチス団委員 赤城良一