ハチス 思い出話(57)

初めての隊キャンプ

昭和20年、日本は大東亜戦争に敗れ、国民は絶望のどん底状態で、子供たちも、
自分の将来に不安を抱いていました。軍隊から戻られた秋月鏡観先生は、
この希望を失った子どもたちを救わねば、子ども会を始められたのです。

これは、ベーデンパウエルが、当時のイギリスの青少年の現状を憂い、
ボーイスカウト活動を始められた姿と、そっくりだったと思います。

昭和22年、私は中学校を卒業して、長岡工専に入学しましたが、私の母イマが、
弟の史朗やその仲間たちが非行に走らないよう、鏡観先生に指導してほしいと、
依頼されたのも動機になったと、話してくれました。

鏡観先生は、早速子どもたち集めて子ども会を始め、歌を教えたり、
ゲームをしたり、ハイキングにも連れて行きました。その年は、
班活動などは行われませんでしたが、次第に班長を決めたり、
縄結びや手旗信号などを教えたりして、班活動の組織作りを進めました。

私は、冬休み、春休みに帰省して、鏡観先生のご指導をいただき、
指導者としての実践を重ね、長岡でも第1隊の結成に協力しました。
こうして、昭和23年8月5日から9日までの5日間、猪苗代湖畔の天神浜で、
初めての隊キャンプを実施したのです。

当時はまだ制服はありせんでしたが、白いシャツに半ズボンという姿に、
西蓮寺本堂の紫色の幕を裁断して、揃いのネッカチーフにしていました。
テントは城北小学校から、少年団時代に使用したテントを借用しました。

当時は、自家用車などは普及していなかったので、天神浜に行くには、
会津若松駅から汽車に乗って関都駅で降り、リュックを担いで天神浜まで、
歩かなければなりませんでした。テントなどの資材はトラックで運びましたが、
班長たちは、自分の荷物の他に、幼いスカウトの荷物まで背負って歩きました。

こうして、天神浜に着いた時には、荷物を積んだトラックのは到着せず、
設営にかかれないでいました。そうしたら、突然、激しい雷雨が襲来、
みんな天神様の軒下に避難して、鏡観先生に教わった「向こうのお山に」を、
大声で歌いながら、荷物の到着を待っていました。

天神浜の松林は砂地なので、テントは簡単に張れましたが、
鏡観先生の知り合いの農家の方が、寝床を柔らかくするため、
シートの下に敷く、多くの稲藁束を持ってきてくれました。

副長の五十嵐俊雄君は畳屋でしたので、テントの中に手際よく藁を敷いてくれ、
グランドシートを被せました。当時は天神浜も人影は少なく、
村の農耕馬などが散歩するという、のどかな環境でした。そしてときどき、
馬がテントの中を覗いて、スカウトたちを驚かせると言う一幕もありました。

当時は、終戦後間もないときでしたので、食糧事情も悪く、米の中に、
薯やカボチャを入れたりの、糧飯(かてめし)の食事でした。
それでも、毎日の訓練は楽しく、常に歌声が絶えませんでした。

<楽しかりし去年の夏の>という歌詞の「たのしい野営」は、
このキャンプのテーマソングとも言える程、よく歌っていました。

この時のキャンプは雨続きの毎日で、明日で終わりというときになって、
漸く太陽が顔を出しました。皆で、もう一日延ばしてとお願いしましたが、
鏡観先生に、スカウティングは計画通りやるのが大切だと教えられ、
しぶしぶ帰ってきました。

翌年の夏も、同じ場所でキャンプを実施しましたが、前にも述べた通り、
柏崎第1隊と、ハチスのガールスカウトとの合同キャンプとなり、
数段立派なキャンプとなりました。

前年の炊事で余った薯を、松林の中に埋めて帰りましたが、翌年、
その薯が芽を出し、大きな薯に育っていました。

平成30年2月16日
  ハチス団委員 赤城良一