スカウ天狗の夜話(7)

新潟地震と青年の家

6月18日の夜の大地震にはびっくりしました。寝床に入った途端の大揺れで、
驚いて起き上がり、揺れが治まってから家中を点検して、眠りに就きました。
夜が明けて、テレビで地震の震源のことや、被害のことを見ていると、
55年前に発生した、新潟地震のことを想い出していました。

昭和39年6月16日午後1時、会津工高にいた私は、強い地震に見舞われました。
震源は新潟県の粟島沖で、マグニチュード7.5という規模でした。
そのとき私は、会津工高の木造校舎の廊下を歩いていました。
大きな揺れで、廊下は、蛇がのたうつ様に左右に揺れ、倒れない様に窓枠にしがみつきました。

実は、この年は東京オリンピックが開催された年で、例年ならば、
10月ごろ行われる国民体育大会が、6月6日から11日にかけて開催されました。
開会式には天皇陛下もご台臨になり、無事終了した直後のことだったのです。
ご存じの通り、東京オリンピックは10月10日に開会式を行ない、大成功のうちに終了しました。

この昭和39年は、ボーイスカウト福島連盟でも、記念すべき年だったのです。
昭和24年、福島連盟が誕生したとき、連盟長や理事長という役は無く、
戦前に少年団の指導者だった、福島市の二階堂誠一先生が事務局を担当され、
わが秋月鏡観先生が理事となり、福島連盟はスタートしたのです。

この昭和39年に、当時の福島県知事木村守江氏を、初めて名誉連盟長に推戴、
県庁前広場で、県内各地から大勢のスカウトが集まり、推戴式を挙行しました。
その年の8月、木村名誉連盟長を迎えて、猪苗代町表磐梯五輪原を会場に、
第3回福島県野営大会を開催しました。

この表磐梯五輪原は、昭和35年から建設が始まった国立青年の家を、
ここに誘致しようと考えていた土地で、この県野営大会で、
誘致運動を盛り上げようという大会となったのです。

国立青年の家は、昭和34年、当時の皇太子殿下のご成婚を記念して、
団体宿泊訓練を通じて、健全な青年の育成しようと、富士山麓の御殿場に、
国立中央青年の家が設置されたのが最初でした。

野営大会の開会式では、木村守江県知事をはじめ、続く来賓の方々からも、
特に誘致を強調する挨拶、祝辞が続きました。野営大会の会場は、
大変ブヨが多いところで、それに刺された参加者が、
膝が曲がらない程腫れ上がって、苦労するという場面もありました。

この誘致活動が功を奏したのか、12月に、第3番目の国立青年の家を、
この表磐梯五輪原に設置することが決定、昭和41年に研修施設が完成して、
国立磐梯青年の家として開所されました。

磐梯青年の家は、磐梯朝日国立公園の磐梯山麓南面にあり、ご存じの通り、
猪苗代湖や裏磐梯の多くの湖沼群などの、山と湖と森の豊かな自然に囲まれ、
かつ、首都圏からの交通の便もよく、年間を通じ、県内はもとより、
関東・東北地方を中心に多くの青少年が訪れ、利用度も大変高いと言います。

その後この青年の家は、平成18年4月から独立行政法人となり、
国立磐梯青少年交流の家と名称も変わりました。全国の施設は次の通りです。

国立大雪青少年交流の家(北海道上川郡美瑛町)
国立岩手山青少年交流の家(岩手県滝沢市)
国立磐梯青少年交流の家(福島県耶麻郡猪苗代町)
国立赤城青少年交流の家(群馬県前橋市)
国立能登青少年交流の家(石川県羽咋市)
国立乗鞍青少年交流の家(岐阜県高山市)
国立中央青少年交流の家(静岡県御殿場市)
国立淡路青少年交流の家(兵庫県南あわじ市)
国立三瓶青少年交流の家(島根県大田市)
国立江田島青少年交流の家(広島県江田島市)
国立大洲青少年交流の家(愛媛県大洲市)
国立阿蘇青少年交流の家(熊本県阿蘇市)
国立沖縄青少年交流の家(沖縄県島尻郡渡嘉敷村)

昭和39年11月、福島市でカブスカウト交歓東北大会が開催され、
山形、宮城、福島連盟のカブスカウトが集まり、交歓活動を行いました。
8日の夜は飯坂小学校で前夜祭を行い、9日には福島第一小学校で、
記念式典を挙行し、続いて市内パレードを実施しました。

令和元年6月24日
  ハチス団委員 赤城良一