第11回日本ジャンボリー
第11回日本ジャンボリーは、平成6年8月、初めて九州で開催されました。
日本ジャンボリーが海を渡って本州を離れたのは、
昭和49年の第6回ジャンボリーで、北海道千歳原で開催して以来のことでした。
このとき福島連盟派遣団は、全員が、仙台港からカーフェリーに乗船して、
北海道の苫小牧港まで、船内で一泊しながら参加したのでした。
第11回日本ジャンボリーは、大分県久住町の久住高原で開催されることになり、
福島連盟は、470名の大派遣団を編成して参加することにしました。
九州に行くには、関門海峡をわたりますが、海底トンネルがありますので、
船を使う必要はありません。しかし、なにしろ遠距離ですので、
470名の人員をどうして移動させるかが、大きな課題となりました。
これまでは、バスや鉄道を使用しましたが、前年に福島空港が開業しており、
飛行機でという案も出てきました。空港に近い須賀川の団が、
飛行機を利用することを強く主張したので、須賀川の団は飛行機にして、
それ以外は、全員が列車で参加することに決まりました。
列車は、片道27時間もかかるので、8両編成の特別列車を貸切りにして、
須賀川の団を除く、約400名の派遣団として参加することになりました。
学校の修学旅行などでは、最低、2クラスに1名以上の添乗員が就きますが、
このときは400名の団体に、僅か2名の添乗員でした。
8月1日、ハチスでは西蓮寺に集合、本堂にお参りをして、会津若松駅から乗車、
途中、猪苗代駅で途中下車して、猪苗代団と会津隊を結成しました。
郡山駅で県北隊と合流、白河からも乗り込み、一路、九州へと出発しました。
特別列車なので、定時運行の列車のダイヤに影響を及ぼさないよう、
東京都内の中央部は避け、貨物線などを利用しているので、各駅の停車時間も、長かったり短かったりでバラバラ、各隊への連絡などは車内放送で行ない、
車中で隊長会議も開催しました。
大宮駅では夕食の弁当の積み込み、班長たちが四百人分の弁当の積み込み、
食後の空き箱の整理なども、てきぱきと素早く処理している姿に、いつも、
学校の修学旅行の世話をしている添乗員は、びっくりしていたようでした。
翌、2日の朝は、広島駅で弁当を積み込んで、8時ごろ朝食を食べ、
昼食の弁当は下関駅で積み込み、午後1時20分ごろ別府に到着しました。
列車の長旅は終り、早速、待機していたバスに乗り換えました。
スカウトたちも、長時間の旅をそれなりに楽しんだようでした。
福島連盟派遣団は、隊ごとに指定されたサブ・キャンプに分散して、
設営を始めました。福島連盟派遣団本部は第2サブ・キャンプとなり、
私は第2サブキャンプ副野営長として奉仕しました。福島連盟派遣団のうち、
会津隊と須賀川隊は第1サブキャンプに割り当てられ、福島連盟本部から、
遠く離れたところに設営しました。
大会のテーマは「蒼き草原より未来へ」で、参加者は30,914名で、
福島連盟からは470名の大派遣団で参加しました。会場はなだらかな傾斜地で、
キャンプサイトとしては最高で、天候にも恵まれ、快適なジャンボリーでした。
5日は閉会式の日、朝から撤営を始めました。日中の雨はすっかり晴れ上がり、
打ち上げ花火の連発のうちに終了、マーキーの中でごろ寝して朝を迎えました。
6日早朝、5時半ごろ、バスで会場を出発、7時半ごろ、別府に到着しました。
別府ではバスごとに観光、会津隊は温泉巡りをして、海地獄、竜巻地獄、
血の池地獄などを見物、高崎山の猿の群れを見てから、別府駅に戻りました。
そして、12時に列車に乗り込み、九州に向かうときと同様に、
特別編成の列車で帰ってきました。
ところがその車中で、一人のスカウトが、熱を出すという事態が発生しました。
指導者2名が、途中の駅で新幹線に乗り換えて大阪駅まで先行、
駅の売店などで氷を買い、遅れて到着する専用列車に戻って看病するという、
サスペンスドラマさながらの活躍をするという、一幕もありました。
翌朝は、静岡駅で朝食の弁当を積み込み、昼食の弁当は大宮駅でした。
そして、黒磯駅を通過するころ、車内放送で、派遣団解団の挨拶を述べました。
白河、郡山などで各隊が下車、会津若松駅には、4時半ごろ到着、
駅前で会津隊の解団式を行ないました。
令和元年6月16日
ハチス団委員 赤城良一
ハチス隊出発式 会津隊サイト
会津地区結団式 久住連山を背に
福島連盟スタッフ