海苔屋の謙さん
平成29年の秋、NHKの「新日本風土記」で「首都高」という番組を見ました。
この首都高というのは、東京オリンピックを控えた昭和37年に開通した、
首都高速道路のことで、東京に暮らす人々の生活を大きく変えました。
大田区大森には、60軒ほどの海苔問屋がありましたが、
首都高建設のため海苔の養殖が出来なくなり、補償金と引き換えに、
伝統の海苔の養殖を、断念することになったという話がありました。
老舗海苔問屋の吉田謙さんは、養殖をする代わりに、磯の香りが強く味が濃い、
大森の海苔と同等の海苔を、全国を探し回って、伊勢湾で見つけたそうです。
この番組の中で、海苔屋の店で、てきぱきと動きながら店員に指示している、
吉田謙さんの姿を見て、BS活動をしている吉田謙さんとよく似ているので、
同一人物ではないかと考えました。
昭和42年、私は第12回世界ジャンボリーの、派遣団員として参加しました。
私は本部員として、4年後の第13回世界ジャンボリーを日本に誘致するため、
ジャンボリー会場の、電気、水道、その他の施設・設備の調査をして、
誘致の準備資料を作成する役でした。
ジャンボリーが始まると、日本連盟の西田徹氏が運転する乗用車で、
会場の電気、照明、音響、水道などの調査で会場を駆け巡りました。
そのとき、一緒に行動したのが、東京連盟から参加した吉田謙氏だったのです。
吉田謙氏は派遣団第4団の団長で、施設・設備の調査係も兼ねていました。
吉田謙氏は、豪放磊落というタイプで、アメリカの担当者とも、
気さくに話していました。「ken」という名のスカウターと出合ったときは、
「同じ名前だ」と言って、抱き合って喜び合っていました。帰国してからも、
日本連盟の会議に出席することが多くなり、吉田氏と会っていました。
「新日本風土記」で海苔屋の吉田謙氏をみたとき、名前も顔も、
ジャンボリーでの吉田謙氏とそっくりでしたので、吉田商店のアドレスを調べ、
ボーイスカウトとの関係を問い合わせました。
すると、直ちに返信があり、間違いなくジャンボリーに参加した吉田謙氏で、
幼少の時から、ボーイスカウト活動をしていたと言うのです。さらに、
私のメールが届く僅か3ヶ月前の7月19日に、急逝されたというのです。
亡くなる直前まで、自ら車を運転して出かけ、ボーイスカウトのキャンプや、
ゴルフ、友人たちとの食事会などにも、元気に参加していただけに、
もう少し早くご連絡が取れれば、私と世界ジャンボリーの話に、
花が咲いたのではと、残念がっていました。
インターネットで「吉田謙ボーイスカウト」と入力して検索したところ、
「日本オールドスカウトクラブ」のホームページが見つかりました。
そこには、ご逝去から5ヶ月経った12月7日に、東京「乃木会館」で、
「吉田謙氏を偲ぶ会」が挙行されたことが紹介されていました。
主催者の挨拶の中で、吉田謙氏は東京連盟の理事長も務め、退任してからは、
ボーイスカウト運動の普及に取り組み、このスカウトクラブの設立に、
先頭に立って精力的に活動されたことが述べられていました。
今回私が見た「新日本風土記」は、平成29年の再放送でしたので、若し、
平成27年の本放送を見ていたら、謙さんにお会いして、
ジャンボリーの思い出話が出来たと思うと、残念でなりません。
令和元年6月3日
ハチス団委員 赤城良一
吉田謙氏偲ぶ会の肖像写真
中央広場 アリーナ
人工衛星の展示 水泳場
派遣団本部員 ジェームス・スチュアート氏