スカウ天狗の夜話(3)

若松コロニー

最近、新聞紙上に「若松コロニー」についての記事が載っていました。
戊辰戦争が終わった後、会津からアメリカ・カリフォルニア州に渡った、
農業開拓団の入植地が「若松コロニー」です。その跡地に建立する記念碑が、
間もなく完成、それを現地に送り、6月8日に除幕式を行うというのです。

戊辰戦争のあとの明治2年(1869)、藩士と家族37名が開拓団に加わりましたが、
その中に、18歳のおけいが子守役として加わっていました。
しかし、 開拓団は崩壊し、一人二人と去って行き、おけいは急な高熱に冒され、 19歳という若さで亡くなりました。
おけいは、アメリカ移民の日本女性第1号だったのです。

昭和42年、アメリカで開催された、第12回世界ジャンボリーに参加したとき、
私は、この「若松コロニー」を訪れ、おけいの墓を参拝しました。

ジャンボリーは、アイダホ州のファラガット州立公園で、8月1日から、
9日まで実施されましたが、閉幕したあと、8つの派遣団は、それぞれ、
各地の一般家庭にホームステイをして、アメリカ文化の見聞を広めました。

8月23日からは、カルフォルニア州のサクラメントで、金沢市の指導者、
菊田裕章氏と二人で、オットー氏という法律家の家庭にお世話になりました。
サクラメントは、カリフォルニア州の州都で、州庁があります。
その時の州知事は、後にアメリカ大統領になったロナルド・レーガン氏で、
私たちは知事室を訪問しましたが、レーガン知事は、残念ながら不在でした。

このホームステイでは、近くのタホ湖などを観光しましたが、片言の英語で、
オットー氏に「若松コロニー」のおけいの話をしたところ、大変興味を持ち、
私たち二人をを案内してくれたのです。8月25日、朝食をすませてから、
オットー氏と菊田氏と三人で、サクラメントから約60キロ離れた、
コロマという町に出かけました。

コロマは、1849年から始まった、ゴールドラッシュで賑わった町なのです。
1849年という年は、「雪山賛歌」の原曲の「クレメンタイン」の歌詞の一節、
「Dwelt a miner, forty-niner(フォーティーナイナー)」に、
49(フォーティーナイン)年という年が入っています。

おけいたちの開拓団が、コロマに到達したのは明治2年(1869)で、
1849年のゴールドラッシュの時代からは、20年も過ぎていて、
フォーティーナイナーたちで賑わっていた町も、その頃はブームも終り、
すっかり淋しい町になっていました。

私たち3人は、9時30分ごろコロマの町に到着、おけいの墓を探しましたが、
すぐには判りません。しばらく探していたら、町外れに小さな博物館があり、
そこで聞いたら、直ぐに判りました。

教えられた道を登って行ったら、丘の上に枯れ草に囲まれて、
会津の背あぶり山にあるおけいの墓と同じ、真っ白な墓が建っていました。
2m四方程度の囲いの中に小石が敷かれ、高さ50センチほどの小さな墓石に、
「おけいの墓」と日本文字ではっきりと刻まれていました。

そして「サンノゼ別院婦人会」と「スタクトン仏教会信徒」と書かれた、
参拝記念の標柱が墓石の両脇に立てられ、花も手向けられていました。
その丘から眺める景色は、会津の背あぶり山の秋を思わせるようで、
彼女が毎日のようにこの丘に登ってきて、会津を思い出していた心情を思うと、
つい熱いものがこみ上げてきました。同行した菊田裕章氏は、
金沢市の僧侶でしたので、進んで読経して下さり、彼女の冥福を祈りました。

おけいの墓のある丘の下には、ゴールド・トレイル・ユニオン・スクールという小学校があり、見学しました。生徒数300、教師数10名の小さな学校でしたが、教材、教具、施設が充実しているのには驚きました。暖房施設が完備しており、各教室にはテープレコーダーや幻燈機が備えられ、大きな図書室もありました。
当時、日本の学校にはテープレコーダーは、充分に普及していませんでした。
カリフォルニア州の予算の48%が、教育費と聴きました。

若松コロニー150年という年に、記念碑が建立されるというニュースを聞き、
52年前の、若きころを想い出しております。

令和元年5月20日
  ハチス団委員 赤城良一