スカウ天狗の夜話(11)

夢は電気技師

ハチスのスカウトたちは、自分の将来にどんな夢を描いているのでしょうか。
私は、小学生のころから、電気の技術者になりたいと考えていました。

夜話1の「私の少年時代」の通り、小学校入学前までは津川の生家に住み、
入学直前に、両親と一緒に北小路の赤城圭一君の家に引越し、
第二小学校(現在の城北小)に入学しました。

入学したものの、近所には友だちが居らず、津川に居る祖母が、孫の私を、
可愛がってくれましたので、夏休み、冬休みには、津川で過ごしていました。
近所には幼なじみの友だちが多く、楽しく過ごしていました。

津川の家の近くには伯母の実家があり、健次郎君という小学生がおりました。
家は電器店を営んでおり、私より一つ年下でしたが、電気の知識がありました。
住いの裏には倉庫が続いていて、中には故障した電気器具や、電線などがあり、
私たちの遊び道具にしていました。最初は鉄片に電線を巻き付けて、
電磁石を作ったりしていましたが、簡単なモーターも作れるようになり、
すっかり電気の魅力に、はまってしまいました。

昭和16年、6年生のとき戦争が始まり、翌年、会津中学校に入学しました。
入学してから、物理教室の前を通ると、準備室から、ピーピーガーガーという、
ラジオの音が聞こえてきました。先輩たちが、科学研究会という同好会を作り、
ラジオの製作をしていたのです。電気に興味を持っていた私には、
これが何とも羨ましく、すぐにこの部屋の門を叩き、入会させてもらいました。

会には、福田和夫さんという先輩がおり、中心になって活動していました。
当時、短波ラジオの所有は禁じられ、海外放送を聴くと処罰されていました。
しかし、福田さんは短波受信機を自作して、海外放送を時々聞いていました。

当時のラジオは再生式といい、受信しようとダイヤルを回すと、
ピーと言う音を出して発振します。これが電波となって発射されるので、
甲賀町にあった憲兵隊の探知機にキャッチされ、福田さんは憲兵隊に連行され、
こってり脂を絞られていました。しかし、その後も懲りずに製作を続け、
また連行されるという強者でした。

昭和20年、戦争が終ったとき、私たちは4年生で最高学年になり。
科学研究会も電気部として復活し、私が会長になりました。
京都大学の湯川秀樹教授の下で、物理学を学んだ高瀬喜左衛門先生が、
教師として赴任され、物理を担当され、さらに電気への興味を深めました。

昭和22年に会津中学校を卒業すると、私は長岡工業専門学校に進学、
電気工学を学びました。卒業時に電気技術を生かす職を探しましたがかなわず、
新潟県立津川高校の教師になり、物理・数学を教えることになりました。

その後、会津工高の教師となり、夢に見た電気技師にはなれませんでしたが、
電気に携わる職に就くことが出来ました。おかげでラジオの組み立ては勿論、
テレビ、テープレコーダー、電子オルガンの制作なども出掛け、
コンピュータの基本も学び、電気技術の路を歩むことが出来ました。

この8月24日、満90歳を迎え、しみじみと自分の人生を振り返って見ました。
好きなことを職業として、余暇には、スカウティングという楽しい活動をして、
職業以外の愉快な友人と出会うことが出来ました。私にとって、
これ以上の幸せな人生はないと考えています。

将来ある若いスカウターの皆さんも、職業に喜びを感ずるよう、
そして余暇にたしみを見つけ、豊かな人生を贈るように祈っています。

今回は、特別な「夜話」になりましたが、「スカウ天狗の夜話」は、
まだまだ続けますので、ご愛読ください。

令和元年8月28日
  ハチス団委員 赤城良一