スカウ天狗の夜話(1)

私の少年時代

30年間の「平成」の時代が終わり、「令和」の時代を迎えました。
「ハチス思い出話」も、ちょうど100話という回数になりましたので、
話題も「ハチス」から飛び出して視野を拡げ、「スカウ天狗の夜話」として、
駄文を書き綴って見ることにしました。

ハチスが誕生したころ、ボーイスカウト活動は急激に活発になり、
夢中に活動するスカウトを、「スカ吉くん」や「スカ天狗」と呼んでいました。
天狗には、高慢、自惚れという意味がありますが、それを承知の上で、
敢えて天狗と名乗りますので、ご了承ください。

さて、本論の「私の少年時代」ですが、私は、新潟県津川町(現・阿賀町)で、
昭和4年に生れましたので、今年で90歳になります。津川町は、
西会津町に接していて、昔は若松県に含まれてい、会津藩でした。

私の父は、私が誕生する前の10年間、南米ペルーに渡り、商売のコツを学び、
昭和3年に帰国、私の母と結婚しました。私が小学校に入学するまでは、
津川の家に住み、木炭商の家業を支えていました。

昭和10年10月に現在の北小路の家(圭一君の家)に引越しをして、
翌11年4月に若松市立第二尋常小学校(現・城北小学校)に入学しました。
この1年生のとき、ドイツではベルリンオリンピックが開催され、
翌年にはその記録映画「民族の祭典」が公開され、2年生になった私たちは、
先生に引率され、栄楽座で鑑賞しました。

ところが、この年の7月7日、中国の盧溝橋で日本軍との武力衝突が起こり、
昭和20年まで続く戦争の時代に入りました。それからは家庭の生活も、
「欲しがりません勝つまでは」のスローガンのもと、節約の毎日になりました。

4年生になったとき、私は第二白虎少年団に入団、春の夕暮れに、
飯盛山の白虎隊の墓前で行われた入団式で、「ちかい」をたて、
少年団員として、スカウティング生活の第一歩を踏み出しました。
夏には、猪苗代湖畔の小石が浜で、初めてのキャンプに参加しました。

昭和16年、私たちは最高学年の6年生になりました。この年から小学校は、
第二尋常小学校は城北国民学校となり、私たちは第1期生となりました。
これとともに、少年団は解散を命ぜられて、大日本青少年団に統合され、
スカウティングを実施していた少年団日本連盟はなくなりました。

6年生は、朝、30分ほど早く登校して、校舎の内外の清掃をしていました。
12月8日の朝、私は生徒昇降口の外の掃き掃除をしていましたが、
校内に居た級友が、「戦争がはじまったぞ」と叫んで走ってきました。
驚いて教室に戻ってみると、廊下のスピーカーから、NHKのアナウンサーが、
日本海軍の飛行隊や潜航艇が、ハワイ真珠湾のアメリカ艦隊を攻撃して、
全滅させたというニュースを、興奮した口調で報じていました。

その後、日本軍は連戦連勝、私たちも勇んで勉強に、体育に励みました。
そして、3月に無事卒業、引き続き上級学校への入学試験に挑戦しました。
私は会津中学校(現・会津高等学校)を受験、筆記試験は無く、口頭試問と、
体育の実技試験がありました。そして、どうにか合格、無事、入学しました。


中学校に入学すると生活は一変、制服は陸軍の兵士の服装と同じ型、
帽子は、戦闘帽に校章を付け、2本の白線を巻きました。登校、下校のときは、
膝から下はゲートル(巻き脚絆)を巻いて歩く規則でした。教科は、英語、
漢文、東洋史などの学科の他に、軍事教練、工作、農作業など、
教室以外での学習が多くなりました。武道の柔道、剣道は必修で、私は柔道を選びました。

入学直後は連戦連勝だった戦争も、翌17年の夏ごろから戦局は反転して、
アメリカの爆撃機が国内にまで飛来して、空爆を受ける状態になりました。
こうした中で、3年生になった昭和19年10月19日、勤労動員の命令が下り、
3,4,5年生の8割の生徒が、川崎市の工場に出動することになりました。

4,5年生は日本鋼管川崎工場に、私たち3年生は2つの工場に分かれ、私は、
ヂーゼル自動車川崎工場(現・いすず自動車)で、トラックの生産をしました。
川崎大師の近くの大師国民学校が、学童疎開で生徒が不在となったので、
そこを宿舎として鶴城寮と名付けて生活を始めました。

明けて昭和20年3月10日、アメリカの爆撃機B29が大挙襲来、
東京はその猛爆によって、真っ赤に染まった空を、私たちは寮の窓から、
眺めていました。この空襲で東京の下町は焼け野原になってしまいました。

しかし、その直後の4月15日の夜、私たちの頭上にもB29が襲来、
無数の焼夷弾を投下されました。幸い、防空壕の中の私たちは無傷でしたが、
校舎には多くの焼夷弾が落下、火を噴き出しました。

先生の命令で校舎の中に飛び込み、燃える焼夷弾の火を残らず消し止め、
校舎を火災から守り通しました。夜が明けて工場に出かけましたが、
工場の屋根は穴だらけ、機能はストップ、全然仕事になりませんでした。
結局、5月になって、汽車の切符を手に入れた者から、会津に帰ってきました。

8月15日、敗戦として終戦の日を迎え、自宅のラジオで家族揃って、
天皇陛下の玉音放送を拝聴しました。上級生の4年生と5年生は、
3月で卒業していて、私たちは最高学年の4年生になっていました。

それからは、学而会(生徒会)の復活などに取り組み、一部の生徒は、
21年3月に4年生で卒業、私は22年3月に5年生で卒業しました。
これからは、ハチスの活動が始まり、私も参加しました。

この後のことについては、折に触れて夜話として述べたいと思います。

令和元年5月5日(令和初のこどもの日)
  ハチス団委員 赤城良一